silentdogの 詩と昼寝

詩をおいてるばしょ。更新はきまぐれ。

健康

 

四つめの四分音符を書き終えたら

縦線を引く

それだけのゲームだ

 

壁を越えてゆくための楽器

壁を作りだすミューズ

二者がせめぎ合う

いきぐるしい箱のなかのルールは、健康だ

 

空気が怖くなかった頃

あの縦線をどんどん折りたたんで

生け捕りにした音を

大きく野に放っている人たちみたいに

なりたかった

 

音を出せない楽器とともに

わたしは壁に寄りかかり

慣れないことだが祈ってみる

どうか、わたしと夫の健康、隣人たちの健康が

遠くまでよく響く、ひとつの音楽となりますように

 

 

****

 

 とても久しぶりに詩を書いてみました。ずっと使っていたお気に入りのテキストエディタ(ommwriter)で作ったのですが、あまりに久しぶりすぎて操作を間違え、せっかく書いたものが一度全消去されてしまいました(全く保存せずに作業していた)。泣いた・・・。悔しすぎて昼寝中の夫を起こしてしまった。でもめげない。

 友人たち(ソファ倶楽部)がまた冊子を作るそうで、せっかくなので参加させてもらうことにしました。お世話になります。

昼寝から少し目覚めて

久しぶりに記事を書いてみようと思います。

 

仕事以外に文を書かなくなってから、2〜3年経ちました。詩を作ることもすっかり止まり、今では仕事か家事か笛か、みたいな生活をしています。そのお陰か、しばらくぶりに自分の書いたものを見て、とても冷静に客観的に読めるようになったかもしれない、と感じました。

読み返そうと思ったのは、先日友人達から、一緒に冊子を作ろうよ、と声を掛けていただいたことがきっかけです。もともと、それほど腕もない私が、時間をかけて腕を磨いてきた彼らのように、自在に書くことはできないだろうとは思いますが。また何か作るいい機会かもしれないなとも思います。

たった2~3年ではありますが、色んな経験をしました。自分の至らなさのために、大切な友人が去ってしまったり。小さいながらも演奏会を何度か開いてみたり。仕事でも音楽でも人間関係が広まったので、間に入って悩んだり解決したり。久々に引越しもして、慣れた場所を去る辛さと、新しい地名を覚えていく楽しさも思い出しました。

詩を作ろう、とばかり考えていた数年前の自分とはかなり変わったかなと思います。だから、前の拙い詩とはまた違った(でもやっぱり拙い)何かが書けるかもしれないなぁと考えています。

 

冬の音楽会

寒空の下

湯気をたてて濾過される

わたしたちの音楽

しとしとと

結露し、したたり落ちて

 

ある日

白い器のような舞台に

たっぷりと注がれて

ひとつの楽団の中で波うつ

 

終演とともに楽団員は

拡散しながら消えてしまい

わたしたちは音楽をうちに秘めていることを

忘れてしまうのだが

 

しとしと

再び来年の冬までの

長い抽出の音がしはじめる

 

 

 

***

 

この頃は趣味の笛に熱中しています。

一緒に演奏をしているグループの人たちは年齢も職業も様々です。年齢の差自体は気にはなりませんが、あの人はきっと私よりも早く演奏しなくなるだろう、と感じることも増えてきました。今のところ私が一番若いメンバーなので、可能性だけで言えば、私が最期に残ってしまうのだろうと。今があまりに楽しいので、起こってもいない喪失が非常に悲しい。みんなできるかぎり元気でいてほしい、と思います。

 

このからだで生きている


この国の人の身体の中には
魚が棲む

 

うすい皮膚と細い骨の扇で
みずをあおぐたびに
波だつ翡翠色の沼
そのそばには
樹が在る

 

力強く絡まり結びつく繊維が
縦横に張り巡らされる森の土の
鮮やかな匂いを辿って
苔むす青の中に分け入ってゆけば
荒野がひろがる

 

風がたえまなく吹いて
崩れた岩石が砂となって飛散する
いつか見た祈りの旗がはためき
ついに破れてしまうその中を
狼が駆けぬける

 

その人の身体の外には
ガーベラの花があふれる部屋に
ちらばるアクセサリーと化粧品
片付けられない夢とかなしみ

 

目覚めて眠るまでの間
部屋を出て
歩いたり座ったり立ったりしているうちに
身体は町にさらされる

 

町には夢を打ち砕くリスクが蔓延している
悪意がさまよい
失望がただよっている
強く打ち据えられて
少しずつ傷んでしまう

 

その身体をよこたえて
今日のあらゆることを抱きしめるうちに
修復しきれなかった傷からもれだす水や
風や森や砂が
視界をうめてゆく

 

この国の人の
一日の終わりは
魚とともにある
風とともに
苔に這う蟲とともに
熱にさらされ
狼とともに駆け抜け
そして
明日も生きようとする
身体の内外の
あらゆるものを重ねた厚い厚い目蓋をあけて
明日も明後日も
この身体で

 

 

「碗」のこと

 ちょうど一年前の自分の日記を見返していたら、映画をみた感想がかかれていました。滅多に書かない日記をつけるくらい、そのときの自分の受けた衝撃度は強かったです。新しいものや、流行には敏感ではないので、しばらくぶりに観た映画の中にみえた「新しさ」に、今はこうなっているのか、と驚いたのを思い出しました。

 

 映像の表現というのは、自分が知らないうちにどんどん新しくなり、進化しているのだなぁと思いながら、自分のつくる詩のことを振り返りました。表現方法も、かかれるものも、とても古く思えました。きっとどちらも、何かに拘りすぎ、がちがちになってしまったのかも。方法と、かかれるもの、どちらかでも自分にとって新鮮なものを取り込めば、もっと楽しく作れるだろうかな。

 

 そんなことを考えるのですが、自分というのは中々変えられないもので、同じようなものを、同じようなかたちで仕上げて、すとんと落ち着いてしまう。その流れからの抜けられなさに、自分でも呆れたりします。自分の中で定型みたいになっている流れを、ちょっと変えてみたいものです。変化することの大変さ、変化しているものの凄さを、しみじみと感じます。

 

 「碗」はちょうどその映画を観た頃に書いたもので、書いたことも忘れていましたが、同じ気持ちを今ももっています。楽しさをもとめて色々試してみたいな、と思っているので、自戒と言う程でもないけど、載せておこうと思います。

あたらしい方法

をさがすようにして、さまよい

さがしあてたように、一つの碗を手にする

 

テーブル

 

しずかに碗を置く

 

そそいでも崩壊しない強度なら

わたし自身も持ち合わせているはずなのに

ほころぶ箇所がいくつでも見つけられる

もう、間に合わせでは、いけなくなってしまった

 

無色透明でも

重さはごまかすことができない

わたしは、とことばを発すればいくらでも、ごまかすことができた

けれど重さは、ごまかせない

 

四度も五度も煎じた茶から抽き出される色彩よりも

もっと淡い

それでも、それは思想といえるの?

わたしはそそぐ

この碗は壊れない

水と器のはだがすれて

川のような音がきこえる

 

 

morning dew

 

 

Swan and Morning Dews。

静かな曲。

 


一音鳴らし、もう一音どこかで鳴れば、音楽になるのだと思う。

白鳥のくちばしから垂れる水音と、どこかの青葉からおちる露。

それだけで。

 


わたしたちは眠りの底からゆっくりとあがってゆく幕を持っている。

ひとつの音となるために目覚めて、音楽とは似ていない日常の中に入ってゆく。

 

 

そしてつめたい空気の中を通過するだけで、半音下がったりする。

 


浮遊する金属板をふむ。

ウォーターリリーガーデン。

きしむ舟。

遠くでひきずられるロープのにぶい音。

 


だから言ったじゃない。嵐が来るって。

きっと飛ばされる、舟や、波や、花々は。

 


固定されていないものだけが

ふわりと次の時間へ進むのだと思う。

飛ばされないわたしの日常を留めているボルトを

いそいでゆるめる。

その朝。

 

らせんが回る音。

鳥の声。

次の音。

それは、わたし。