silentdogの 詩と昼寝

詩をおいてるばしょ。更新はきまぐれ。

「透視図」、住むということは

維新派の野外劇「透視図」を観るため、大阪を訪れた。大阪は遠いが、維新派は可能なかぎり観たい、と毎年のように思う。観たい、というか体感したい。だがいかんせん遠く、時間と予算がぴったりと合うことは数年に一度。最後に見たのは琵琶湖での舞台で、そのときも大変遠かったが、行くみちも、舞台も、かえりみちも、自分にとっては、かけたもの以上に価値があったと今でも思う。

そして、その数年に一度の機会が訪れたのが今年。

今回の「透視図」も、とても良かった。舞台にでてくる沢山の人々は、大阪という巨大なまちを、表しているんだろうか。

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この都市に生きるひとたちはひとりひとりがひとりでありながら、都市自体でもある。わたしは全く別の土地の人間だというのに、終幕間際に、この都市と一体になったような気がした。大阪である人々が、わたしたちが座っている客席に染みるように消えていったから。

そして照明が落ちて、舞台の背景だったビル街の夜景が、背景ではなくなった瞬間、心から感動した。様々な土地から移り住んだ人々を、大阪の素地とも言える土地や人の集合が受け入れ、ともに都市となっていったその現在の姿は、ただ美しいだけでなく、やさしく力強い夜景だと感じた。

大阪は、維新派にとても愛されている、と思う。わたしの知らない沢山の悲しい事情があるとしても、そのことだけでも素敵だとわたしは思っている。

翌日、宿泊先近くの中之島公園をあるいたあと、思いつきであべのハルカス展望台にのぼってみたのだが、どちらの場所でも前日の舞台と繋がるものを見ることができたと思う。

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人は、生きる土地とともに生きる。土地は、人とともに、まちになる。だからまちは問題をかかえるけれど、血や涙をながしながら前にすすむ。住むとはそういうことかな。巨大な都市であったとしても、また限界集落であったとしても。住むということは。